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文久2年閏8月22日(1862.10.15)
【江】幕府、参勤交代の改革・大名妻子の帰国許可を布告
【京】九条家諸太夫暗殺

■幕政改革へ
【江】文久2年閏8月22日、幕府は参勤交代制度を緩和し、大名妻子の帰国を許可するなどの改革令を布告しました。

参勤交代の緩和と妻子の帰国許可
諸大名を春中在府・夏中在府・秋中在府・冬中在府の4種類に分け、3年に1回の出府とする。さらに在府期間は、御三家・溜間詰・同格は1年、大広間・外様・譜代・雁之間詰、奏者番、菊之間縁類詰・交代寄合は最大100日。さらに、江戸藩邸の家臣を減らすこと、在府中は時々登城し、政務に関する意見を具申するようにとの旨も伝えられた。

●その他の改革
  +献上物の原則全廃
  +諸大名の乗切登城許可・供連の簡素化
  +年中行事の改廃
  +服制の改革

<ヒロ>
参勤交代と妻子の在府は、幕府の大名統制の大きな柱でした。このため、安井息軒や芳野金陵のように、この2点の改革を批判する儒者もいました。逆に尊攘激派はこれを幕府の権力の失墜ととりました。

参考:『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』2(2003.10.20)
関連:■テーマ別「幕政改革問題」 ■「開国開城」「文久2年5月〜:勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革

■「天誅」(テロ)
【京】文久2年閏8月22日、京都で九条(前関白九条尚忠)家の諸太夫宇郷重国が暗殺されました。その首は翌朝、松原河原に晒されました。

九条尚忠は安政の大獄時の関白でもあり、激派公卿や尊攘浪士から憎まれており、寺田屋事件の際にも襲撃が計画されたほどでした。このため、6月23日には関白を辞職していました。そして、7月20日、九条家家臣島田左近が、安政の大獄時に長野主膳と結んで「奸曲」を行ったことを理由に暗殺されました(こちら)が(京都における天誅の嚆矢)。今回の暗殺の捨て札は宇郷を島田左近と「同腹」と断罪していました。

参考:『徳川慶喜公伝』2(2003.10.20)
関連:■テーマ別「公武合体派排斥・「天誅」


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